「キリスト教禁令の意義」石城問答を通して考える

日蓮宗福岡教化センター発行の「弘通91号」(H28年8月発行)に寄稿

石城(せきじょう)問答

 問答といえば、アニメ「一休さん」での「ソモサン!(作麼生)・セッパ!(説破)」というやり取りを連想する方もおられるでしょう。これは分かりやすくいうと「どうだ?」に対して「答えよう!」という意味です。

 実際に行われていたかつての宗教問答は、こんな生易しいものではありません。負けると袈裟(けさ)・衣(ころも)の没収、或いは社会からの追放という厳しい処分が下っていました。

 四百年前の博多でも、福岡藩の歴史の中で重要な問答が行われました。後に「石城問答」と名付けられています。

 内容を端的に云えば法華経とキリスト教の問答であり、結果は法華経側の勝利ということを、まず申し上げておきます。では何故、博多でそのような問答が起こったのでしょうか? それには少し、歴史を振り返る必要があります。

 ちなみに石城とは石の城。則ち元寇防塁のことです。つまり元寇防塁が築かれた博多を表しています。

黒田官兵衛と長政

 福岡の初代藩主といえば黒田長政。その父である官兵衛は晩年、出家して如水(じょすい)と名乗っています。一方でキリスト教にも傾倒しており、シメオンという名も持っていました。

 長政公は、父と共に豊臣秀吉に仕えていましましたが、父の隠居、そして秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に付きます。

 この少し前に秀吉は九州を平定。そして滞在先の筥崎(はこざき=現、福岡市東区)の地からバテレン追放令を発布します。

 追放令発布の理由と解釈については諸説ありますが、原文には「日本は神国たるところ」とあります。つまり「日本には日本の神がおられるのだから、外国から邪法を授けられるのは宜しくない」ということです。

 信教の自由を否定するつもりはありません。しかしながら日本の文化を守る上では非常に重要な政策だと私は思います。

 当時の九州は南蛮貿易が盛んでした。その影響もあって、現実としてキリスト教は衰退することもなく、むしろ活発な活動がなされていたようです。

 長政公が福岡藩主として筑前国に入ったのは関ヶ原の戦いの後。天下を統一した家康も秀吉と同様、キリシタン排斥を狙っていました。

 藩主として、家康の命に従ってキリスト教を追放しなければならないという思いがありながら、現実としてキリスト教の布教所もあり、父の官兵衛は元キリシタン大名。長政の悩みは大きかったに違いありません。

 そうした中、博多蓮池町(現、博多区中呉服町)に妙典寺というお寺が創設されます。

 妙典寺創立記念の法要では、京都の妙覚寺という由緒寺院の修行僧であった日忠上人という方の法話が行われていました。

 当時の博多にはキリスト教徒が多く在住しています。そうした中で日忠上人は、「法華経以外の信仰は全くけしからん」と仰っていたようです。これを耳にしたキリスト教徒は激怒。上人に対して宗教問答を挑みました。

邪正問答抄

 妙典寺は幸いにして火事などにも遭わず、古い文書が遺っています。明治三十年に著された「妙典寺履歴」には様々な事歴が記載されています。

 この中に「邪正(じゃしょう)問答抄(もんどうしょう)」という項目があり、そのやり取りが伺えます。

 文章は、司祭の補佐役である旧沢(ふるさわ)と安都(アント)という二人の人物の問いかけに日忠上人が答える形式で進んでいます。安都という名は、ポルトガル語の男性名で使われるアントニオでしょう。日本人と西洋人の二名だと思われます。

 旧沢と安都は日忠上人の法話を論破しようと試みたようですが、逆に自分たちの浅はかさを露呈する結果となりました。各問答の最後には「閉口」と書かれています。つまり、二人は全く歯が立たずに帰ってしまったようです。

 しかしながら暫くの後、彼らは日忠上人を殺害せんと二百人の信徒を連れて妙典寺に戻って来たとあります。

 妙典寺では、四十人ほどの武者を各所に配置して上人を警護。その迫力に恐れをなしたキリスト教徒一味は、なすすべもなく退散したと記載されています。

長政公の措置

 この事件はすぐに藩主の長政公に報告されました。藩主の喜びは大層なものだったと記載されています。

 それもそのはず。官兵衛と家康との間で悩んでいた案件が解決できるのです。問答に敗れ、更に日忠上人を殺害しようとした事実も合わせると、キリスト教徒を博多の町に在住させるわけには参りません。追放です。

 長政公は彼らが在留していた土地を没収し、その土地を日忠上人に褒美として与えます。そしてそこに「法華経の道場を建立して良い」という沙汰を与え、自らお寺の名前を与えます。

 問答に勝ち、正法たる法華経を弘める拠点として、「正法興隆山 問答勝立寺」と名づけられました。現在、天神の日本銀行のすぐ近くにある「勝立寺(しょうりゅうじ)」がそうです。

 この十年後の慶長十八年、徳川幕府は「伴天連追放之文」を公布。更に鎖国政策を実行した事は皆さんご存知の通りです。

禁教の意味するところ

 幕府による禁教に伴う迫害によって、多くのいのちが犠牲となった事実から目を逸らすことは出来ません。そして明治以降、特に日本国憲法によって信教の自由は保障されました。私達が今、西洋文明の中で生活しているのも事実です。

 しかしながら、戦国末期から明治維新に到るまでの約三百年間、何故キリスト教が禁じられたのか、私たちは考える必要があると思います。

 宗祖、日蓮聖人が立正安国論の中で指摘された「他国侵逼(たこくしんぴつ)難」、つまり「人心が乱れていると外国から侵略される」という危惧は、七百年前の蒙古襲来だけではないと思えてなりません。

 最後に、石城問答での日忠上人の締めの言葉を原文に近い形でご紹介させて頂きます。

 「早く邪徒の大悪見を翻して仏法の真道に入るべし。しからずんば吾、公場に訴えて汝が慢幡をくだき、その本根を絶たん。これ則ち仏恩を報じ、国恩を報じ、一切衆生を安ずるなり」

 グローバル(地球規模)という言葉が飛び交う現代だからこそ、日本独自の宗教や観念が重要であり、世界に誇るべきだと私は考えます。